国語という教科がすべての教科の土台であり、ひいては、生きていく力の土台である――。
この考えは、世の中にはすでに行き渡っています。
しかし、では、その国語をどうやって大事にしていくのか、
国語のどんなところを磨いていくのか、
どんな力を手に入れ、どんな人になっていくのか――。
そのような問いが十分になされているとは言えません。
紫雲国語塾では、「国語はことばの力。考える力。そして、生きる力」を理念として、母語の語彙と表現、そして論理に習熟することで、考える力、表現する力を高め、その結果として成績も向上する、と考えています。
読書を第一に考え、その上で、読み方・解き方を学ぶことが大切です。
紫雲国語塾は、2002年に開校した、中学生・高校生を対象とした「国語塾」です。
国語という教科には、「勉強しても成績が上がらない」という思い込みが根強くあります。
「国語が苦手」「どう勉強すればいいかわからない」という声をお聞きし続ける中で、
「国語がわかる」「国語はおもしろい」という声を多くしようと、指導の質を追求し続けています。
そして、国語の学力向上のための、従来の国語指導とは異なる指導を行っています。
国語を苦手にしないために。いえ、むしろ得意にするために。
そして、これからの人生を生きる力にするために。
ぜひ紫雲国語塾にいらしてください。
「国語は全教科の土台」。この言葉を口にする人が増えました。そして、この言葉の意義を疑う人も少ないはずです。日本語を使って生きていく以上、日本語を使う能力が、全教科どころか、全人生に影響を与えることは、おそらくは間違いないことでしょう。
しかし、にもかかわらず、国語がつねに大事にされている、とは言えないのも事実です。小学校のころは、「国語、算数、理科、社会」という言われ方の通り、国語は、全教科の中で、筆頭に挙げられる教科です。そして、その順序通りに、毎日の学習の中でも、国語は大切にされています。
しかし、それは実は、小学校が「読み書き能力」としての国語を担当しているからです。平仮名と片仮名を学び、次々に出てくる新しい漢字、そしてさまざまな語句や表現を確実に修得していかなければ、それこそ全教科に大きく影響するからです。
ところが、中学校になると、順序は「英数国理社」となり、国語は、主要3教科の中で最後尾に下がります。新しく登場する英語の学習に意識が行くのは当然かもしれませんが、英語もまた言語修得の教科であり、そこに力を入れ、国語の学習量は相対的に減少します。また、算数から「昇格」した数学も、その学習内容が本格化し、相応の学習量を要求してきます。そして、理科と社会も、それぞれ、「第1分野」「第2分野」、「地理」「歴史」「公民」と細分化され、それなりの分量と難しさを持つようになります。
そんな中で、明確な分野や単元を持たない国語は、「まあ、それほどやらなくても」「やってもやらなくても同じ」という認識になり、最低限の学習量も確保されなくなっていきます。小学校で学んだおかげで、何と言っても、とりあえず日本語で読み書きはできるわけですから…。
したがって、国語は、入試対策のしにくい教科として、多くの進学塾で疎んじられてきましたし、今でもそうだろうと思います。ある塾で、「英数理社国」という言い方をしているのを聞きましたし、「国語はやっても上がらないから理社をがんばれ」という言葉を、高校入試が近づくにつれ、しばしば耳にします。
そして、高校です。誰もが文系と理系に分けられる中、そのどちらにも共通の必須教科として、英語が君臨します。また、国公立大学志望者にとって、理系ではもちろん、文系でも、数学は必須の教科として学習生活の中心に位置し、その理解と訓練に、多大な時間が割かれます(「誰もが学ぶ内容としては、高校の数学は難しすぎる」という議論も出ています)。つまり、「英数国」と「理社」というよりもむしろ、「英数」と「国理社」とも言うべき状況になり、結果、国語の学習の優先度は、さらに低くなるのです。
高校3年生の時点で、「国語が悪い。どうしよう」と動き出しても、長い年月をかけてないがしろにされてきた国語の力を取り戻すことは、正直に言ってかなりの困難を伴います。そのときにできるのは、要点だけをつかむ読解術を学び、過去の入試問題の研究と、それと向き合う訓練を通じて、ともかくも入試での得点力を向上させることだけです。そしてそれは、残念なことではありますが、人生全般で必要な、生きる力としての国語力では、もちろんありません。
私たちが日本語を使って生きていくということは、単に読み書きとして日本語を使う、ということではありません。頭の中で考えるとき、人と話すとき、日本語を使っています。
「問題解決能力」という言葉をよく聞きますが、その根底にあるのも、この「日本語」で「考える」力です。いくら理系の人であっても、日本語をまったく使わず、数字や文字だけで思考する人はいません。私たちの思考を支えているのは、日本語の能力なのです。
ところが、日本では長い間、国語という教科が、思考のための訓練、という機能よりも、文学の鑑賞、そして、その感性の修得、といった意識が濃く、論理的思考の訓練や、それを文章にして提示する教育が不足しています。
たとえば、誰もが経験したことのある「読書感想文」で言えば、何十年もの間、「いい本を読ませる機会」としてだけとらえられ、「感想文」をどう書くのか、という指導はほとんどなされていません。
そのため子供たちは、どのように論を組み立てていいかわからず、ただ「感想」を書くだけで、要求された「枚数」に達することができません。したがって、保護者が代筆せざるを得なくなり、それを提出して済ませるのです。そのようにすでに形骸化しているこの「読書感想文」が、それでも唯一の作文の機会である、という事実は、日本語の運用能力にたいする教育がほとんどなされていない、何よりのあらわれではないでしょうか。
2006年、ドイツで行われたサッカーW杯で、日本代表が敗退したことについて、選手間のコミュニケーションの欠如がその一因として挙げられました。その結果、その後の選手育成では、「言語技術」が重視され、自発的なコミュニケーションを奨励する教育が行われています(『言語技術が日本のサッカーを変える』田嶋幸三・右写真)。
大学入試の場面でも、推薦入試が多様化し、「自己推薦書」「志望動機書」などの作成、提出はもちろん、面接の場での自己アピールや、上手な受け応えなど、日本語でのコミュニケーション能力が問われる機会が待ちうけています。
そして、いわゆる「新テスト」(大学入学共通テスト)では、記述式の導入こそ見送られたものの、「考える力」「表現する力」は、出題を通して、今後さらに求められていきます。
そして、何よりも、多くの保護者の方が実感されているのは、たとえばご自身の勤務先での「国語力」の問題ではないでしょうか。確かに、言葉には、時代によって遷り変わりと流行はあります。しかし、だからこそ、異なる世代の人同士、異なる価値観を持つ人同士をつなぐ、共通言語の運用能力が重要なのです。先輩と後輩、上司の言葉と部下、取引先と自分をつなぐ言葉、そして、その言葉を使って考え、表現する力が、「国語力」なのです。
「国語力が低くならないために」。そのために、国語塾に来てください。そして、考える力、表現する力、適切なことばで適切なコミュニケーションができる能力を、養ってください。そのことの価値を疑わず、長い目でお子さんの国語力を向上させてください。(小林)